2011年12月20日火曜日

「イマダモクケイにオヨバズ」

暫く、『呻吟語』を
題材にブログを
進めていまして、
安岡正篤先生の
『呻吟語を読む』を
紹介していた時に、
ふと双葉山さんの事が
頭をよぎりました。

私は大分県の出身で
郷里が生んだ大横綱
双葉山さんの
大ファンでした。

双葉山さんこそ
呂新吾さんが
『呻吟語』で語る
深沈厚重
(しんちんこうじゅう)の
第一等の
資質を持つ人物として
頭に浮かんだことも
さることながら、

さらに
安岡先生と
双葉山さんとの
出会いにおける
或るお話を
思い出したからです。
それは、「木鶏」の話です。

安岡先生の
『人物を修める』
(致知出版社刊)という
本の中に
それは書かれています。
このお話も
とても奥深い
人格形成にふさわしい
実話で大好きな
おはなしです。
引用させていただきます。


「恐らく老子と
その最も代表的な
後進である荘子と
前後する人と思われるのが
列子であります。

しかし、
この人については、
老子の後学で
荘子の流(ながれ)であると
推定される以外、
全くわかっておりません。

その「列子」に
「木鶏」(もっけい)
の話があります。

紀渻子(きせいし)、
王の為に闘鶏を養ふ。
十日にして而して問ふ、
鶏已(よ)きか。
曰く、未だし。
方(まさ)に
虚憍(きょけう)にして
而して気恃(たの)む。

十日にして又問ふ。
曰く、未だし。
なお影響に応ず。

十日にして又問ふ。
曰く、未だし。
なお疾視(しつし)して
而して気を盛んにす。

十日にして又問ふ。
曰く、幾(ちか)し。
鶏、鳴くもありと
雖(いえど)も、
已に変ずることなし。
之を望むに木鶏に似たり。
其の徳全し。
異鶏敢(あえ)て
応ずるもの無く、
反って走らん。

これと同じ話が
「荘子・外編」に
出ております。

紀渻子という人が
闘鶏の好きな王
(学者によって
説もありますが、
一般には
周の宣王ということに
なっています)
のために
軍鶏(しゃも)を養って
調教訓練しておりました。

そして
十日ほど経った頃、
王が“もうよいか”と
ききましたところが、
紀渻子は
“いや、まだいけません、
空威張りして
「俺が」という
ところがあります”
と答えました。

さらに十日経って、
またききました。
“未だだめです。
相手の姿を見たり
声を聞いたりすると
昂奮するところがあります”。

また十日経って
ききました。
“未だいけません。
相手を見ると
睨みつけて、
圧倒しようとする
ところがあります”。

こうして
さらに十日経って、
またききました。
そうすると初めて
“まあ、
どうにかよろしいでしょう。
他の鶏の声がしても
少しも平生と変わる
ところがありません。

その姿はまるで
木彫の鶏のようです。
全く徳が充実しました。
もうどんな鶏を
連れてきても、
これに
応戦するものがなく、
姿をみただけで
逃げてしまうでしょう“と
言いました。

大変おもしろい話で
ありますが、
私はこの話を
往年の名横綱双葉山関に
したことがありました。

これは双葉山関自身が
『相撲求道録』という本に
書いておりますが、
まだ横綱になる前の
大変人気が出てきた頃でした。

双葉山を
非常にひいきにしていた
老友人に招かれて
一緒に
飲んだことがあるのです。

なにしろ
私も
まだ若かった頃ですから
つい一杯機嫌で、
“君もまだまだだめだ”と
申したましたところ、
さすがに
大横綱になるだけあって
私もそのとき
感心したのですが、
“どこがいけないのですか”と
慇懃(いんぎん)に
尋ねるのです。

そこで私が
木鶏の話を
いたしましたところが、
大層感じ入ったらしく、
それから
木鶏の修行を
始めたのです。

その後は皆さんも
ご存知のように
あのような
名力士となって、
とうとう
六十九連勝という偉業を
成し遂げたのであります。

なんでもそのとき、
私に木鶏の額を
書いてくれということで、
書いて
渡したのでありますが、
その額を部屋に掛けて、
朝に晩に静座して
木鶏の工夫をした。
本人の招きで
私も一度まいりました。

今度の大戦
(第二次世界大戦)の
始まる直前のことで
ありますが、
私は欧米の
東洋専門の学者や当局者達と
話し合いをするために
ヨーロッパの旅に
出かけました。

もちろん
その頃はまだ
飛行機が
普及しておりませんから
船旅ですが、
ちょうどインド洋を
航行中のときでした。

ある日、
ボーイが
双葉山からの
電報だと言って
室に飛び込んできました。

なにしろ
当時の双葉山は
七十連勝に向かって
連戦連勝の最中で、
その人気は
大変なものでしたから、
ボーイもよほど
興味を持ったらしい。

そして
“どうも電文がよく
わかりませんので、
打ち返して
問い合わせようかと
係の者が
申しておりますが、
とにかく
一度ご覧ください”と言う。

早速手にとってみると
「イマダモクケイにオヨバズ」
とある。

双葉山から
負けたことを報せてきた
電報だったのです。

なるほどこれでは
普通の人に
わからぬのも
無理はありません。

この話が
たちまち船中に伝わり、
とうとう晩餐会の席で
大勢の人にせがまれて
木鶏の話を
させられたのを
覚えています。

その後双葉山の
木鶏の話が
自然に広がり、
あちらこちらに鶏ならぬ
人間の木鶏会が
できました。
しかし、
これは結構なことです。」
引用了

双葉山さんが
69連勝を達成する
時代というのは
昭和11年~14年で

当時、大相撲は
1月場所と5月場所の
年二場所の興行でして
しかも、11日間でした。

12年5月場所から
13日間になりましたが、

それも、双葉山人気が
凄まじいものであって
徹夜で入場券を
求める人たちが
後を絶たず
当時の相撲協会も
判断を下し
昭和12年5月場所より
13日間行われることに
なったのです。

その時代の69連勝です。
丸三年間の連勝記録です。

三年もの間
コンディションと
精神力を高めていくのは
並大抵のことでは
なかったことでしょう。

双葉山さんは
元々、右目が見えません。
子どもの頃に
吹き矢が当って
失明を余儀なく
されています。

また、小指も二回
事故で骨折しています。

ハンデもものともしない
双葉山さんの精神力は
木鶏たりえたからこそ
為しえた快挙と
いえるのではないかと
思っています。

私が子どもの頃は
既に引退されており
私が知っている
双葉山さんは

時津風部屋の親方として
横綱、鏡里をはじめ
大関も多数輩出された
名親方として

また、
日本相撲協会の理事長
として相撲協会の
トップに君臨されており、
数々の改革も
為されたリーダーとして
大活躍された方でした。

57歳の若さで
亡くなられました。
2012年2月9日が
双葉山さんの
生誕から100年目で

郷土の大分県宇佐市では
100周年記念の
イベントで
真っ盛りだそうです。


木鶏は
木で作られた鶏です。
真に強い闘鶏は
まさに木鶏のようだと
言います。

木で作られた鶏は
無心であります。

そこには
相手に勝ちたいとか
名誉が欲しいとか
お金が欲しいとか
人を憎む心も
怒りも妬みも
何もかもありません。

一切の我執を離れた時
人間を超えた
真なる我、
尋常ならざる
偉大な力が
湧き上がってくると
思うのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちも
この木鶏の寓話のように
虚心坦懐の我に
なれるのです。
それは、
元々、備わっている
性質だからです。

しかし、
努力なしには
為すことはできません。
今、この瞬間から
意識して
「木鶏」を目指すのです。
あなたは
真の強者になり得るのです。
共に頑張って
まいりましょう。

生かしていただいて
ありがとうございます。

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